リアル刀剣男子(オヤジ?)が語る日本刀その逸話:第三部「刀に宿る歴史と物語」

現代の侍山家衛艮さんが送る日本刀の逸話、第3部!!開幕!!今回もものすごく勉強になります!楽しい!

歴史と物語

◆日本刀の神秘性

日本刀の“神秘的”と言える所は、まずは第一部でご説明した通り、“名刀”と言われる刀ほど美しく、また斬れる点でしょう。

この日本刀の特性は、あるパラドックスを導きます。それは武器として優秀な、つまり殺傷能力が高い刀ほど、実戦では使われないということです。

そうしたことも踏まえ、ここで、日本刀の神秘性にかかわるエピソードをいくつかご紹介したいと思います。

☆エピソードⅠ:ある外国人女性の言葉

ここで僕が以前に出会った外国人女性の言葉を紹介します。

僕が居合道修行で真剣を使っていることを知った彼女が、是非その刀を見せてほしいと言うので、祭礼用の刀を披露しました。

しばらく刀身を見つめていた彼女が不思議そうに言います。

 “日本のサムライたちは、本当にこんなカタナで戦ったのですか?”

 僕が頷いて棟(むね:峰とも言う)の刀傷を示し、実戦を経験した証拠だと説明すると、何度も首を振りながらため息をつき、こんな言葉を口にしました。

 “もし私がサムライなら、こんなに美しいものを、命の奪い合いに使おうとは絶対に考えません”

日本刀には、その美しさによって、持つ者に使用を思い止まらせる力があります。

現在、日本国内の刀剣の総数と銃の総数は圧倒的に刀剣の方が多いのですが、凶悪事件で用いられる頻度は銃の方がずっと高いことはご存知でしょうか?
これは単に殺傷能力の違いによるものではありません。刀剣よりもずっと殺傷能力の低い包丁・ナイフ類が事件に用いられる件数が、刀剣よりもはるかに多いことがそれを証明しています。

日本刀は、その性能に見合うようには使用されない不思議な武器なのです。所有者に使用をさせない何かがあるのですね。ここに“武器として優秀な、殺傷能力が高い刀ほど実戦では使われない”というパラドックスの源泉があります。

そしてこの日本刀の力は、日本人とは違う歴史や文化を持つ外国の方にも伝わるものなのでしょう。

 数百年の歴史を持つ刀剣が健全な状態で、しかも民間や個人で普通に保存されているのは、そうした事情によります。これは諸外国ではまず考えられない事です。

因みに、この時のエピソードを小説の形式でまとめた文章が「夢を叶える145」というWEBサイトにアップされています。ご興味のある方は、以下のリンク先をご覧くださいね。

【陰陽五行】火焔丸
夢を叶える145☆セルフイメージの変容と引き寄せ【陰陽五行】火焔丸一章二章終章著者プロフィール Dr …

彼女の言葉と同じように、僕自身、修行のために竹を斬ることが時々ありますが、自分の刀で犬や猫を試し斬りにしてみようと思ったことは一度もありません。これからもないでしょう。そのような愚かで酷い使い方で、気高く美しいものを穢したくないからです。

この辺りが、サバイバルナイフやピストルとの違いでしょう。こうした“凶器”を手にすると、その殺傷能力を生き物で試そうとする人間が必ずいます。そのために愚かで醜い事件が起きたりしますが、日本刀という“霊器”にはそうした“内なる魔”を封じる何かがあるのです。

☆エピソードⅡ:“武士の魂”

「武士の魂」の画像検索結果
シネマカフェ

かつてこの国を生きたサムライたちが、腰に差した刀を“武士の魂”と呼んでいたのはよく知られていますね。
しかし、彼らはその腰に帯びた魂を、滅多に抜くことはありませんでした。それは、そうした刀の在りようを、自身の在りように重ねていたからでしょう。

実力を備えているものほど美しく、またその実力や美はむやみにひけらかすべきものではない

と考えていたのです。

しばしば誤解されますが、江戸期の武士たちは、いざとなったら使うということを念頭に刀を腰に差していたわけではありません。もちろん、敵に襲われれば抜いて戦いますが、どちらかと言えば、“意地でも抜かないために腰に差していた”と言う方が、より正確な理解でしょう。

江戸期、いわゆる“斬り捨て御免”の制度によって、武士が無礼を働いた百姓や町人を容赦なく殺害していたというイメージを持っている人がいますが、とんでもない誤解です。確かにそうした制度はあったのですが、これはむしろ、納税者である百姓町民を、武士が簡単に殺傷しないための制度だったのです(江戸時代はどのお殿様も経済的に大変でしたので)。

目的は全く逆でした!!

脇道にそれるのでここで詳しくは説明しませんが、いかなる理由であれ、百姓町民を刀で殺傷した武士は、よほどの事がない限りこの制度によって何らかの処罰を受けました。最悪の場合は切腹の上、家門・家禄を没収されたのです。そうした意味でも、武士は滅多に刀を抜きませんでしたし、またそれが美学でもあったのです。

簡単に抜きたくなるような、つまり持ち主の“血の誘惑”を止められないような、野蛮で程度の低い刀しか持っていないのは、刀と持ち手をイコールと考える武士たちにとっては恥以外の何物でもなかった。武士道には、そうした文脈があったんですね。

☆エピソードⅢ:“刀礼”のロマン

「刀礼」の画像検索結果
武道振興會

現代剣道では失われ、居合道で継承されている所作の一つに“刀礼”があります。

稽古や演武の始めと終わりに、自分の刀に頭を下げる作法です。

※念のため、前回・前々回に添付したリンク先をもう一度。5分過ぎくらいに僕がこの刀礼をしている様子も収録されています。後姿なのでやや分かりずらいですが。

www.youtube.com/watch?v=cCn-q1mqDJA

僕が入門した当初は、この作法の意味について特段の説明は受けず、そのように決められたものとして、そもそもの前提条件として教えられました。
なので、僕の方も特に疑問は持たなかったのですが、今は教える立場になり、この礼法の意味をしばしば考えます。

道場や指導者によって説明が異なりますし、修行者それぞれによっても位置付けが異なるかと思います。どれが正解、ということは無いのでしょう。ただ、頭を下げるからには、己に扱われる刀を、扱う己より上位に位置づけて敬う作法であることは間違いありません。

なぜ扱われる道具としての刀が、扱う人間よりも格上なのか??

現在では、“礼法”として定められているので、という以上の意味を見いだそうとする修行者はほとんどいないでしょう。
いたとしても、“刀は武士の魂だから”とか、“日本刀は世界で唯一の、宗教的崇拝対象になり得る武器なので”、あるいは刀匠などの刀の制作者に対するリスペクトだ、といった感じなのではないかと想像します。それはそれで立派な理由ではあります。

でも僕には、何かが足りないようにも感じるのです。

常日頃、腰の刀を己自身の一部のように携えてきた人間たちには、もっと切実な何かがあったのではないか。いや、あったに違いない。そういう違和感ずっと消えませんでした。

先日、稽古を終えて刀の手入れをしている時に、ふと閃くところがありました。何故この刀に対して頭を下げるのか。その意味が、自分の中の確かな実感として、すとん、と納得できたように思いました。

先述したように、僕が祭礼で用いている刀は、およそ五百年前の刀工が鍛えたものです。今の僕が祭事での演武、竹斬りに使って全く問題ない状況が保たれているのは、その五百年の間、常に手入れされてきたからです。

誰が手入れをしたのか。言うまでもなく、この刀を腰に帯びてきた武人たちでしょう。

完全に実戦向きの刀なので、観賞用として保管されてきたとは思えません。棟(峰)にはいくつもの刀傷があります。実戦を潜っただけでなく、奪った命もあるかも知れません。

僕が知る事のない何人もの武人たちが、己の魂として命を預けて来た刀を、今の僕が腰に携えるのだとするならば。

「あなた方が受け継いできた魂を、この僕もまた受け継ぎます」

刀礼には、そうした意味合いがあるのだと気づきました。

また、いずれこの刀は、僕より後の誰かの腰に携えられることもあるでしょう。

「君たちにきちんと受け継いでもらうためにも、僕は間違った使い方はしないよ」

そうした誓いの意味もあるのではないでしょうか。

「週刊少年ジャンプ」の人気漫画「僕のヒーローアカデミア」の主人公:緑谷出久(みどりやいずく)は、“ワン・フォー・オール”という特殊能力の、9人目の継承者として描かれます。そしてその特殊能力を介して、歴代の継承者からさまざまなメッセージを受け取ります。

日本刀も、あるいはこの“ワン・フォー・オール”のようなものなのかも知れません。

そう考えると、己が携える日本刀に、何とも言えないロマンを感じます。その“ロマン”に対して頭を下げる。そういうことでもいいのではないかと思います。

 今回は日本刀に宿る物語とその歴史をご披露しました。次回最終回、第四部では具体的な刀剣について語ります。「刀剣乱舞」でもお馴染みの、“天下五剣”の一つ、「童子切安綱」。この名刀中の名刀が持つハンパ無いオーラがどういうものか。

乞うご期待!!

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